2025/02/16
森の奥深く、誰も近づかないとされる「影見の谷」がある。そこは昔から、夜になると人の声が聞こえると言われていた。だが、誰もその声の主を見たことはない。
ある秋の夕暮れ、大学で民俗学を学ぶ青年・遥人は、卒業論文のためにその谷を訪れることにした。地元の古老たちは口を揃えて「行くな」と言ったが、遥人は興味に勝てず、録音機と懐中電灯を持って谷へと向かった。
谷に入ると、空気が急に冷たくなり、風もないのに竹が揺れていた。遥人は録音機を回しながら、古い祠の前に立った。そこには「影見様」と呼ばれる存在を祀った石碑があり、苔に覆われていた。
その夜、遥人は谷で野宿をした。深夜、録音機から突然、誰かの囁き声が流れ出した。
「かえして…かえして…」
目を覚ました遥人は、周囲に誰もいないことを確認したが、録音機は止まらず、声は次第に怒りに満ちていった。
「かえして…わたしの…かえして…!」
翌朝、遥人は谷を出ようとしたが、道が消えていた。GPSも使えず、方角も分からない。竹の間から、白い着物を着た女が見えた。彼女は遥人に背を向けて立っていたが、振り返ると顔がなかった。
遥人は叫びながら逃げたが、どこへ行っても同じ祠の前に戻ってしまう。録音機は壊れているはずなのに、ずっと囁き続けていた。
数日後、地元の捜索隊が谷に入ったが、遥人の姿はなかった。ただ、祠の前に置かれた録音機から、微かに声が聞こえていた。
「かえして…わたしの…顔…」
それ以来、影見の谷では夜になると、誰かが「顔を探している」ような気配が漂うという。