2025/07/22

春の風が通り過ぎるとき、奈々は図書館の奥の席に座って、窓の外をぼんやりと眺めていた。大学四年の春休み。卒業まであとわずかだというのに、心の中には小さな穴のような空白が広がっていた。
その空白の正体を、奈々はすでに知っていた。
それは、椎名 蓮——同じゼミで、同じ日々を過ごした彼のことだった。
彼と最後に話したのは、三ヶ月前の冬。ゼミの研究発表の打ち上げの帰り道で、彼は「春になったら、話したいことがある」と言い残し、それ以降、連絡は途絶えたままだった。
奈々はスマホを取り出して、彼とのチャット履歴を開く。最後のメッセージは、雪が降った翌日。「今日の空、綺麗だったね」と書かれていた。
あのとき、「またすぐ会える」と思っていた自分が、今では遠く感じる。
そして四月。新しい季節の始まり。彼からの約束の春が、とうとうやってきた。
奈々は席を立ち、図書館の出口へ向かう。外の桜は、まだ五分咲き。けれど、その蕾には確かな希望が宿っていた。
——彼に、もう一度会えるなら。
風が彼女の髪を揺らしながら、街の音を運んでくる。遠くの時計塔が午後三時を告げていた。
奈々は図書館の階段をゆっくり降りながら、ポケットに手を入れた。そこで指先が触れたもの——一枚の古びたチケット。去年、蓮と映画を観に行ったときのものだ。忘れていたはずなのに、なぜか今日、そのチケットが入っていた。
「……偶然?」
奈々は首を振った。偶然なんかじゃない。きっと、今日が“その日”なのだと心の中で呟いた。
駅前まで歩くと、見慣れたカフェの前に差しかかった。そのガラス越しに、ひとりの人影が見えた。
——椎名 蓮。
あの日と同じ黒いコート。髪は少し伸びていて、彼はコーヒーを前に窓の外を見ていた。
奈々の足は自然と止まり、心臓が静かに早鐘を打ち始めた。
「話したいことがある」
彼の言葉が、静かに蘇る。
その瞬間、蓮が視線を動かし、奈々に気づいた。目が合った。時が止まったような一秒。
そして、彼は微笑んだ。
ドアを開ける音が優しく鳴った。奈々はゆっくりと彼の前に座った。
「待ってたよ」と彼が言う。
奈々は頷きながら、言葉よりも先に涙が一粒、頬を伝った。
春の風が、カフェの外を通り抜ける。桜は——見上げると、満開だった。
カップが触れ合う音が静かに響き、奈々は蓮の向かいで指先を組んでいた。久しぶりの再会に言葉が追いつかず、しばらくはただ互いの存在を確かめるように過ぎる時間。
「ずっと…謝りたかったんだ」
蓮が口を開いた瞬間、奈々の胸がふわりと揺れた。
「謝るって…何に?」
彼は少し目を伏せた。外の桜の影がテーブルに映っている。
「三年前。あの日、奈々が父親の病院に向かったとき、俺…ついていくって言ってたのに、行かなかった。結局、最期に間に合わなかったって、後で聞いた」
奈々は、息を呑んだ。
蓮の記憶は正しい。あの日、彼女は、心の支えだった蓮を待ち続け、病院にひとりで向かった。そしてその夜、父は息を引き取った。
「私…ずっと、聞けなかった。どうして来なかったのか」
蓮は、胸ポケットから一枚の封筒を取り出した。色褪せた封筒。差出人は「志村 連」——彼の本名。
「俺、椎名蓮って名前は、母の旧姓なんだ。志村家は、父の家系で、俺が疎遠にしていた方でさ」
奈々の眉が動いた。
「その日、志村家の祖母が亡くなった。連絡が来て…どうしても行かなきゃいけなかった。でも言えなかった。奈々の大事な日に、別の理由で約束を破ったなんて…」
彼の声が震えていた。
「ごめん。ずっと隠してた。本当の名前も、家族のことも。だけど、春になったら話すって決めてた。お互いに、“四月”って、新しく始める季節だろ?」
奈々は、封筒を見つめながら、涙の跡がもう乾いていることに気づいた。
「じゃあ…今日から、本当の“志村連”に会うってこと?」
彼は頷いた。
「うん。本当の俺で、奈々に向き合いたい」
春の光が、窓越しに二人を包む。過去の痛みと、言えなかった真実。そのすべてを越えて、桜は静かに舞い始める。