2025/07/22

かつて、一人の少年がいた。名前は結人(ゆいと)。そして少女の名前は詩織(しおり)。
二人は同じ団地の向かい合った部屋に住んでいて、いつも窓越しに手を振り合っていた。
小学生のとき、詩織が病気で長い入院生活に入った。結人は毎日、窓から詩織の部屋を見ては、ポストに手紙を入れ続けた。
「きょうの雲はあんパンみたいだったよ」
「クラスのうた、ぼくが代わりにうたったからね」
だが、ある日を境に、詩織の部屋の明かりがつかなくなった。
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「ねえ、もう詩織ちゃん、帰ってこないって本当なの?」
おとなは言葉を選びながら、「遠いところへ行った」としか言わなかった。
結人は納得できなかった。彼女との約束があった。「元気になったら、夜の校舎に忍び込もう」って、二人で笑って言っていたのに。
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時は流れ、高校生になった結人は、感情をうまく出せないまま成長していた。
誰かを好きになっても、ふと詩織の名前が心に浮かぶと、胸が苦しくなった。
ある雨の日、団地のポストの奥で、一枚の封筒を見つけた。そこには消えかけた字でこう書かれていた。
「私、すごくこわい。でもね、結人が私のこと覚えててくれたら、それだけでいいの」
詩織が亡くなる直前、母がこっそり託していた最後の手紙だった。
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夜。結人は、一人で夜の学校に忍び込んだ。
校舎の屋上、雨上がりの空に満天の星が浮かぶ中、彼は一言つぶやいた。
「……遅くなってごめん。でも、ちゃんと来たよ。詩織」
涙は出なかった。ただ、風がやさしく髪をなでた。
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それからというもの、結人は毎年その日に、星空の下で詩織の名前を呼ぶ。
“悲しみは、忘れるためにあるんじゃなくて、抱きしめるためにある”と、彼は思うようになった。