2025/07/22

潮の香りがいつもより濃く感じられる午後、千景は汽車を降りた。終点の駅には、誰もいなかった。唯一、軋む音をたてて揺れる木製のベンチが、長い間を誰かと共有してきた風情を醸し出していた。
目的地は、ここからさらに歩いて一時間先にある「誰もいない灯台」だった。
彼女の祖父が生前、一度だけ話したことがあった。
「若いころ、ある女の人に会った。言葉少なだったが、目がとても澄んでいてな。灯台の前で、ただ風を聞いていた。」
その話が、なぜか頭から離れなかった。
祖父が亡くなったあと、その岬を訪れるのが、千景の中に宿ったささやかな願いになっていた。
一本道の坂道を歩くうちに、海の青がじわじわと視界に押し寄せてくる。やがて、ぽつりと立つ白い灯台が見えた。
そこに、本当に「いた」のだ。
ひとりの女性。膝にノートを広げて、なにか書いている。目を上げると、彼女と視線がかち合った。
「あなた……旅人ですか?」
その声は、まるで波に乗って届いたように、柔らかだった。
「灯台に呼ばれて来たような気がして……」と千景が答えると、女性は微笑んだ。
「ここは、不思議ですね。誰かが会いにくると、風が少し甘くなる。」
ふたりは、それからしばらく言葉を交わさず、ただ灯台と海を見つめていた。
その日から、千景は毎月一度、その岬を訪れた。
そして気づく。女性のノートの中には、祖父の若き日の姿が描かれていたことに。
彼女は、祖父が語っていた“あの人”だった。
時を越え、言葉を越え、灯台の風はふたりを導いていたのだ。