2025/07/22

第一章 知らぬ間の約束
まだ肌寒さの残る早春、東京郊外の街に住む高校二年生の結城湊(ゆうき みなと)は、放課後の河川敷でぼんやりと空を眺めていた。風に揺れる桜のつぼみを眺めながら、彼の頭には、時折ふわりと浮かび上がる“あの記憶”があった。
それは幼い日の思い出。まだ保育園にも通っていなかった頃、近所の公園で出会った女の子の姿。名前も覚えていない。でも、手を繋いで一緒にシャボン玉を追いかけた、春の日の光景が、今でも湊の心の奥にあった。
——また、会えたりするのかな。
その問いに答えるように、新学期を迎えたクラスに現れたのが、転校生の白石紬(しらいし つむぎ)だった。明るく穏やかな笑顔に、どこか既視感があった。だが彼女の方は、湊のことをまるで初対面のように接してきた。
「ねえ、また会えたね」と、言いたくても言えない。湊は心にしまったまま、再び彼女との日々を重ねていくのだった——
第二章 ふたりの間に流れる時間
春が本格的に訪れ、クラスにもようやく落ち着きが戻りつつあった。湊と紬は、偶然にも席が隣同士になり、自然と言葉を交わすようになっていた。
「今日の国語、難しかったね」 「うん、特に古文が…。でも、湊くん、いつもスラスラ解いてるよね。ちょっと尊敬しちゃう」
そんな些細な会話が、彼の胸をやさしく満たしていく。まるで、忘れていた何かが少しずつ戻ってくるような、不思議な気持ちだった。
放課後、ふたりは図書室で宿題をするのが日課になっていた。ある日、紬がふとこんなことを口にした。
「私、小さい頃の記憶ってあんまりなくて。でも、時々夢を見るの。春の公園で、誰かとシャボン玉をしてる夢」
その言葉に、湊の指が止まった。 胸の奥にしまっていた記憶が、微かに震えた。
「それ…本当に夢かな?」 「えっ?」
「……いや、なんでもないよ」
湊は微笑んだが、心の中は嵐のように揺れていた。まさか、彼女もあの記憶を——?
第三章 記憶の綻び
数日後、放課後の図書室。陽だまりの中、湊と紬は並んで問題集を解いていた。窓から差し込む光に、紬の横顔が淡く照らされ、湊の胸はまた静かに騒いだ。
「ねえ、湊くんって、小さい頃どこに住んでた?」 紬がふと問いかけた。
「ん? 小学校に上がる前は、この街にいたよ。ほら、南桜公園ってあるだろ? あの近くだよ」
「えっ…南桜公園?」 紬の瞳が、まるで何かを確かめるように揺れる。
「どうかした?」 湊が問いかけると、彼女は少し微笑んで首を振った。
「ううん、なんでもない。ただ…私、その公園に行った記憶があるの。でも、それが夢なのか現実なのかわからなくて」
彼女の手元にあったシャープペンの先が、ぴたりと止まった。
「そっか…」 湊は言葉を選びながら、そっと彼女を見つめた。言うべきか、まだ早いか。心が揺れる。
「じゃあさ、今度一緒に行ってみない? 南桜公園」 「え?」
「もしかしたら、何か思い出すかもしれないし」
紬はしばらく黙ったあと、小さく頷いた。
「…うん、行ってみたい」
その約束は、またひとつ、ふたりの距離を近づけた。幼き日の春風が、ふたりの記憶をもう一度撫でてゆく——
第四章 春風の記憶
日曜の午後、湊と紬は南桜公園の入り口に立っていた。空は澄み渡り、木々は若葉を揺らしている。かすかに吹く春風が、ふたりの心を静かに包みこんでいた。
「ここ、こんなに広かったんだね」 紬が小さく呟いた。
「うん。小さい頃は、もっと大きく感じたけどな」 湊は微笑む。
ふたりはゆっくりと、公園を歩いた。ベンチの脇をすり抜け、小さな噴水の前を通る。やがて、少し離れた場所にある砂場の前に立ち止まった。
「——あ」 紬が足を止めた。
「どうした?」 湊が覗きこむと、紬は目を見開いたまま、じっと一点を見つめていた。
「ここ…ここで、シャボン玉を追いかけたの」 彼女の声は震えていた。 「水色の服を着た男の子と、手を繋いで…笑ってて…あれ……?」
紬の視線が、ゆっくりと湊へと向けられる。 「それって……まさか——」 湊は、そっと頷いた。
「やっぱり、君だったんだよ。あの日の女の子は」
紬の頬に、涙が一筋こぼれた。けれど、それは悲しみではなかった。長い夢から目覚めたような、やさしい涙だった。
「どうして、言ってくれなかったの?」 「うまく言葉にできなかった。でも…君にまた会えたことが、嬉しくて」
ふたりは微笑み合った。まるで、過去と現在と未来が、一つの線に繋がったような瞬間だった。
その日、風は少しだけ強くなって、どこからか漂ってきたシャボン玉が、空へと舞い上がっていった——
第五章 ふたりで紡ぐ今
春休みが明け、新しい学期が始まった。桜の花びらが風に舞い、学校はいつもより少し騒がしかった。そんな中で、湊と紬の間には、穏やかな変化が訪れていた。
以前より自然に目が合い、何も言わずとも気持ちが伝わるような瞬間が増えていた。周囲の友人たちも気付いているのか、「最近、仲良いね」と茶化す声が飛び交うほどだった。
ある日、帰り道の交差点で、信号待ちをしていたふたり。
「ねえ、湊くん」 紬がそっと言った。 「私、またあなたに恋したんだと思う」
彼女の声は小さくて、それでもはっきりと届いた。
湊は一瞬驚いた表情を見せたあと、ふっと微笑んだ。 「僕は、ずっと君を想ってた。子どもの頃から、ずっと」
信号が青に変わり、ふたりは並んで歩き出した。何気ないこの道が、まるで運命の道のように感じられる。
—
そして季節が進み、彼らは大学へ進学し、離れることなく同じ街で生活を続けた。過去の記憶と現在の想いを重ねながら、ふたりは少しずつ未来を形づくっていく。
プロポーズは、再び訪れた南桜公園のベンチで。 「もう一度、君に『はじめまして』を言わせて」 「——でも、今度はずっと一緒にいてね」
紬は、笑って頷いた。
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ふたりの物語は、こうして一本の時間の糸となって、やがて“結婚”という形で結ばれた。けれどそれは、終わりではなく始まりだった。 ふたりが小さな手で交わした無垢な約束は、大人になった今も、心の中で静かに息づいていた。