2025/07/22

都会の片隅、古いアパートの三階に住む少女・葵は、生まれつき音を聞くことができなかった。
そのせいか、小さな頃から「見えない言葉」に敏感だった。人の視線や空気の揺れ、指先の微かな動きに、心の言葉を感じ取る力があった。けれど、ある日アパートのポストに、一通の手紙が届く。
「はじめまして。あなたの部屋の隣に住んでいます。声にはできないのですが、あなたに伝えたいことがあります。」
手紙は名前も、差出人住所もない。ただ、手書きの文字からは、なぜだか温かさが伝わってくる。それから毎週、決まった曜日に手紙は届きつづけた。内容はたわいもない日常のこと。空の色や、近所の猫の話。けれど、その言葉の奥には、何か確かな想いが宿っていた。
ある日、葵は思い切って返事を書く。
「あなたの手紙を読んでいると、音がなくても心が動くのを感じます。」
返事をポストに入れて数日後、ドアの隙間から一枚の便箋が滑り込んだ。そこにはこう記されていた。
「ありがとう。あなたと出会えて、はじめて”音”の意味を知った気がします。」
葵は静かに微笑んだ。
音のない世界にも、確かに心は響いていたのだ。